Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

毎日21時には寝ようと思う

起きるのは06時だ。これは本当のことだが、一方で、誠実な言い方ではない。僕は06時に一度目を覚まし、そのあとまた07時まで寝る。さすがに10時間以上寝ると、眠気というのはほとんどない。「布団に戻ろうか」と思うことはあるけれど、それは単に自堕落からだ。惰性。外を見るとまだ暗く、朝だとは信じられない。であれば眠っていても構わないじゃないか――そう生理学的な部分は提案する。しかしこれを却下して、結局は起きたままでいることにする。ここに自由意志があると思うし、なんなら純粋に惰性から再び眠ろうとすることにだって、意思決定の余地がある。そして、この純粋に自分で決めることができる、という事態にこそ、僕は自分の性向が矯正されているのを認める。

仕事上の理由があって、睡眠時間や起床時間が決められ、自分の時間を持つどころか生存が困難になることもある。世の中には、「自分の時間」を持たないひとというのもいる。自分の時間が、すなわち他人と過ごす時間、というひともいる。結局のところ、「これは自分の時間です」と宣言できるかが問題になってくるわけだが、ここには今日は立ち入らない。自分の時間を確保するために、日々10時間の睡眠が必要な人間もいる(実に燃費の悪い話だが、ぼくはその一人だ)。

僕の場合、仕事上の必要から、だいぶ睡眠時間、ひいては生活リズムを破壊された。自分の時間を確保するには、それなりの睡眠時間とか栄養、金が必要になる燃費の悪い人間なので、これは堪えた。業務によって自分の人生が歪められていると感じていたし、この思いはまだ抜けていない。もはや取り戻せない歳月を悔やむことも多い。何より悔やんでいるのは、こうなるだろう予感があったことだ。予感があって、それが実現している。

自分の意思の薄弱さを糾弾する一方で、あれは仕方なかったんだと弁護する声もある。当時の僕には、自分の意思というものがとことんなかった。それを発揮する時間も場所もなかった、とも言える。なんども書いているように、ぼくの場合は特に、物事を冷静に評価しようとすれば、健康な生活と何より睡眠時間が必要だ。この肝心要の要素が欠けていたために、僕は自分のことすら冷静に見ることができなかった。「こんな生き方長く続かない」と感じる部分はあった。しかしそれは、どちらかと言うと、ネガティブな発想の(そして加熱しやすい部分の)ように思えたし、かといって用意できる意見とすれば「石の上にも三年」というなんの根拠もないものなのだった。