形こそ人間の形をしているが/あるいは蝶の夢を見る
ぼくらは形こそ人間の形をしているが、意識の現れ方を見るともっと不定形ではないかと思わずにはいられない。直立二足歩行が癖になっているから毎日歩くし、尻と呼ばれる部位を軸に椅子にも腰掛ける。五指を駆使してキーボードを叩き、受話器を持ち上げ、相手の話を聴いて現状を頭の中に思い浮かべる。そしていわばイデア的な雲の上で意思疎通を測る。これは他者を前にしてコミュニケーションをとっているときも、実はそうなのではないか。僕らは相手を見ているようで、相手が人間型であることを見るというよりも、その所作から構築されるイメージを見ている。
一人の人間であることを、直立二足歩行や道具の使用に求めるわけにはいかない。社会というものが存在するからには、そこでの役割が求められる。ふるまいの醸し出す雰囲気が、そのひとの姿だ。電話を取って記録を作り、そうすることで金を得る。しかしそこに求められるのは、どう考えても、直立二足歩行や道具の使用といった、辞書的要素ではない。ここで語っているのは、必然性の問題だ。絶対的な必然性は存在せず、単に習慣から、そしてまだ技術がまだ未成熟なせいで、人間を置いているに過ぎない。やがては代替可能になる。それまでの繋ぎだ(とはいえ、全てを技術に置き換えることが目的とされているわけでもあるまい。僕らは無駄を愛する)。
友人と語らっているときの僕と、派遣先で働いているときの僕、そして自分の部屋でひとり呆然としている僕では、波形が異なっているように思われる。波形――こう書くのは、僕から人間の形を奪い、あるいはしかるべき微分を行って、しかるべき平面上の点に乗るようにした際に有効になる表現だ。この主体を乱暴にも「僕」と呼び、そこから周囲の諸事物に伸びる線を描き――これこそが波のように見えるわけだが――集中力の強弱によって等高線を描く。このようにして、僕というタイトルの波形が生まれる。これらの波形は、生活の中の各シーンと密接に関わりのあるものであり、たとえば、友人と語らっているときの僕の波形が、派遣先で生じるとは限らない。おそらく、「ほとんどない」。
生活の中の各シーンは、諸々の事物によって構成される。というか、各シーンの性格は、それを構成する要素によって形作られる。職場に友人が遊びに来ることはなく、自分の部屋でひとりアニメを見ているときに電話がかかってくることはほとんどない。構成する要素が変われば波形が変わるのも当然だが、不思議なことに、これらの波形を総合して(果たして総合しても本当によいのか)「僕」とみんなは呼ぶ。僕は今日、この文章で、この命名の暴力性について語りたいと思うのだが、それは等高線の積み重ねをして「山」と呼ぶに等しい。「何々山」と呼ぶのではなく、単に「山」と呼ぶこと。このとき歴史や文化、固有性は失われ、残るのは交換可能な(すなわち差し引きして価値のない)普遍的な事実だけが残る。これが客観的な評価だとされる。
日常的な言い方をするなら、「ひとにはいろんな面がある」というだけの話だ。
仕事を一度辞め、今もう一度働いている際に思うのは、そんなところだ。僕は自分という存在が過ごす1日という時間の中で、さまざまな波形が生じるのを見ている。どちらかが優勢であるべきだ、とか、どちらかを抑制しなければならない、という考え方はほとんど不可能になってきた。もちろん、これらのアイディアは、理想としては、まだ生き残っている。たとえば、小説ができるまで文章を書き続け、その間衣食住の心配をしなくて良いならどんなに素晴らしいだろう。それこそ、僕の望んだ自分の姿だろうし、そういうことができてはじめて、僕は一個の人間として村立しうる。同じように、いつでも好きな国に旅に行ければどれほど良いだろう、などとも思う。しかし、今はまだ、この時給ではそういう夢を見るには足りない。
あるいは、ここでもう1つ上の階層から全体を見るのであれば、こうも言うこともできる。この、様々な波形に共通して存在している要素を「僕」と呼ぶのではないか、と。これは実在するかどうかもわからない部分だ。何しろそれは不定形であり、透明であり、そういう線では「架空の」と表現できなくもない。しかしそう考えたところで、この肉体が必然的な要素であるかはあまり自信が持てないのも事実だ。ときおり、僕は水槽の中で目を覚ます。目を覚ますといっても、脳髄だけだから、光の受容器もなく、暗闇の中でただ今までの出来事が夢だったのだなと気づくに終わる。
波形。これがテーマだ。それは歯車のようなもので、シーンに噛み合う波形とそうでないものがある。その波形の生きるシーンを間違えるな、という問題でもある。もし、部屋で一人過ごす際の波形を職場で広げれば、途端にそれの何か純粋なものが壊れてしまう。
しかし目下の問題としては、この波形のコントロールは意外と難しく、シーンの解題と適切な採用が困難だという点だ。自分を守るためには柔軟性が必要だ。