Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

006-007本目: 「∀ガンダムI 地球光」『∀ガンダムII 月光蝶』(2002年)

1999年から2000年まで公開されたテレビシリーズ『∀ガンダム』の劇場版。大学生をしていた頃にレンタルしてきて全部見た作品であり、その雰囲気からとても大事になった作品。それまで観たガンダムシリーズは、戦争がどうしてもメインになってしまい、その悲惨さが強調されていたような気もするが、これはそういう事件は起こるけれども、平和な世界を目指し、そこで生きていこうとする人々の記録だった。

全50話のテレビシリーズを合計4時間16分にまとめているということもあって、省かれている部分が当然多い。このシリーズの代名詞的なシーンのひとつである、牛を運んだり洗濯をしたりというシーンも残念ながらカットされている。個人的には、月の運河でクジラのフリをするマント付きの∀とかも好きだっただけに、ちょっと残念。まあこの点は、テレビシリーズを見直せば良いだけの話か。

あらすじ

月から環境適応テストとして降りてきた青年、ロラン・セアックは、川で溺れかけていたところを助けられた縁から、鉱山主ハイムの家で働いている。機械に強い彼は、そのスキルを見込まれ、運転手に任じられたり、鉱山の発掘を手伝うようになる。自分が月からやってきた人間であることを隠しながら、しかし地元に馴染み生きてきた。

この間、領主のグエン・ラインフォードは、地球に入植を希望する月の民と交渉を続けていてたが、彼らの文明力を恐れ、市民軍である「ミリシャ」を増強し備えていた。

ロランが月からやってきてから2年。彼はハイム家のお嬢様であるソシエ・ハイムと共に、地元の「成人式」セレモニーに参加する。その土地で崇め奉られている「ホワイトドール」という像の前で、聖痕を授け会うのが祭りのピークだ。しかしその時、月からの先遣隊とミリシャが衝突、彼らの街は燃え、空にビーム光が走る。それに反応するようにして、ホワイトドール像の中から白い機械仕掛けの巨人が現れる。

この事件をきっかけにして、平和を願い地球の人間として生きることを望む青年ロラン・セアックは月と地球、そして封印されていた太古の歴史(=“黒歴史”)を巡る一連の騒動に巻き込まれていく。

作品情報

19世紀のヨーロッパ文明をベースにした舞台と、牧歌的な雰囲気が特徴。戦争の悲惨さよりも、そこに住んでいる人々の生活の方に重きが置かれている。『竹取物語』や『とりかえばや物語』と言った、古典的な仕組みがうまく機能していることもあり、タイムスリップしたような気分が味わえる。また、そのために、今までのガンダムシリーズが、人類が宇宙に進出した後という高度に発展した文明を背景にしていたのと異なって、割と見ているこっちに近い時代に巨大機械・超高度な文明が出現したら、というイフものとしても楽しめる。こういうところ、とてもSFしていて良いと思う。

魅力

ある作品を始める時というのは、新情報として世界観を構築しなければならなくなる。これ自体は、登場する技術や社会問題などで補強することもできるが、結局のところ、人間の本質はあまり変わらない。ある社会システムが出来上がったとして、ひとはそこに順応しようとするか、あるいは反発しようとするが、睡眠や食事、日常会話などはなくならないと思う。こういう「どの時代も行うだろう人間の所作」を総合して、生きているというわけだけど、これが何か作品を作るときには難しくなってしまう。あるテーマに従事するとき、一番最初に蔑ろにされてしまうのは、この「生きている」という状態だ。(普段の生活でも仕事が忙しければ、睡眠とか食事とかがまずダメになりがち)。

もっとも、この「生きている」シーンは物語に不可欠かというと、必ずしもそうではない。テーマが語られていれば、ひとは物語として認識することができるし、魅力的なひとや技術が出てくれば、それを見ているだけで楽しむこともできる。テーマの消化が物語の軸とするならば(これもひとつの見方だけど)、ドラマは人の心をサスペンスする技術であり、生活を想像させるようなシーンは任意選択の部分とも言える。しかし、このポイントこそが、観るひとを作品世界に没入させる一番近いものである。(一方で、この生きている感じが出ているとそれだけで僕は高得点!となってしまう。性癖だからね)。

そうくると、富野監督というひとは、この生きている感じを出すのが本当に上手い。Gのレコンギスタとかでもそうなんだけど、あの作品では、宇宙船の中をランニングしたり、歯磨きは「歯茎のマッサージの意味もあるんだから」といってガムを噛んで終わらせる友人に意見を言ったりする。ガンダムで洗濯したり、牛を運んだりするのもそうだ。そういう、モビルスーツ、宇宙、高度な文明という、それだけで世界観を保たせうるようなアイディアの中でも、ひとは生き、生活しているっていうのを見せられてしまうと、もうこっちはぐっとくる。そういうものがあってこそ、ひとは戦おうとするし、作中で求められる平和っていうのが漠然とであれ、現実味を帯びたものとして、生きたものとしてイメージされてくる。それはただ戦争がないってことじゃなく、そこでの生活が想定されている。この点で、ロラン・セアックには強さがあった。