Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

春になったら、東京まで歩こう

という気分なっている。

前提プラン

2023年が春になったら、苫小牧からフェリーに乗って大洗へ、そこから群馬の友人に会いに行き、神保町あたりに出没しようと思っている――徒歩で。
こう書くと、「また大言壮語がはじまった」と思われるかもしれないが、別に1日2日で全行程を歩こうってわけではないし、ヒッチハイクも考慮に入れている。できるだけ平地を行くつもりだし、交通機関のあるところを進みたい。

目的は、二つある。

  1. 体力試験
  2. 土地勘の獲得

1番目については、自分の体力がどこまでのものか知りたいからだ。
現状、小説を書こうとするものの体力が続かなくて困ることが多い。これはかなり困る。仕事を終えて帰宅してからでも、無尽蔵に小説が書けるくらいの体力がないとマズい。

個人的には、体力ってのは、肉体的なものと精神的なもの、そして疲れとか飽きを耐え忍ぶものから構成されると思っている。それって精神力じゃないの? とも思うが、まあちょっと聞いてほしい。
心というのはとにかく肉体の影響を受けやすいのだが(疲れていたり、空腹だったりすると気分が落ち込んだりする。少なくとも、元気溌剌とはならないだろう)、一方でそういうものから外れた部分もある。自分の肉体的・精神的不調をマスキングすることも可能で、どんなに疲れていても道端で横になるのではなく、家に帰れたりする部分がこれだ。

たとえば、札幌市(例として札幌駅)から、苫小牧のフェリーターミナルまでは、約14時間かかる(約66km)。

景観を考えるなら、支笏湖経由の方がベターだ。けれども、途中で心が折れることを想定した方が良かろう。
一応、支笏湖周辺のキャンプサイト、無難にホテルってのもあるが、単純に高すぎる。
「次の街まで」なら、まだ精神は保つ気がするので、恵庭、千歳あたりで一泊することになると思う。

なんなら、道端とか公園で寝袋のまま横たわっていても良い。基本的に失うものはないからだ。あるいは、それを見つけるための旅ということになるかもしれない。

このプランの意義

そんなものはない。
目的は立てたが、それが自分に及ぼす影響は未知数だ。途中で心が折れる可能性は高いし、このプランを実行して完遂できたとして、「だからなに?」って感じだ。

確かに、やり遂げたことで得られるものは多いだろう。自分に欠けている「最後までやり切った」という感覚とか、「無駄だと思っても続ける」忍耐力とかは得られる。しかし、どう考えても賢い方法ではない。だって、遠くに行きたいなら、飛行機なり列車なりバスなりを使えば良いわけで、徒歩って距離でもなければ時代でもない。伊能忠敬をしようとしているわけでもないのだ。地理感覚を身につける――それで? なんにもならない。

無駄を否定するつもりはない。「一見、他人から見れば無駄に見えることでも、自分にとっては大切」ということは多い。
ただ、ぼくはこのプランについて、それを見出せない。

先日のテスト

先日、試しに12km歩いてみた。そこそこ疲れた。そして疲労が抜けない。

この疲労は、身体的なものももちろんだが、それ以上に「飽き」に由来すると思う。高速道路を区切りとして折り返したわけだが、道中、別に見るものも見当たらなかったからだ。

車の往来、小さい空間にパッキングされた個々の人生というのが、ぼくを惑わせた。彼らにはそれぞれ人生があり、経済をちゃんと回し――そんな大きなスケールでなくても、自分の生活は回しているのだ。一台通りすぎる度に、自分の社会性みたいなものが運ばれていく気がした。その側をぼくは歩いているはずなのに、だんだん道から外れていく気がした。すでに外れていると思ったが、まだまだ外れることができるのかと驚いた。

免許証は持っている。車の運転はしたくない。