イシヤキイモを追って
いーしやああきいもおおお芋ダヨ♪
ユカリは思わずベッドから飛び上がった。
久しぶりに、来た。幼い頃から何度も聞いたことのある音声……しかしその発生源を見かけたことが一度もなかった。
捕まえるなら、今しかない。彼女はコートを羽織りながら考えた。スマホと小銭をポケットに入れる。これで足りるだろうかと指先で硬貨を数えながら思う。吟味している時間はなかった。今夜にもう一度、あの声が聞こえるという保証はない。
ユカリがローファを引っ掛けながら部屋を飛び出すと、冬の冷気が彼女を迎えた。ぶつかってきた、と言った方が正しい。彼女は怯みかけ、正気に戻りかけた。「こんな夜中に出かけるなんて正気か?」そんな気持ちが芽生える。「腹だって空いてるわけじゃなかろうに」
ああもう、とユカリは思う。こうやっていつも迷いというやつに足をすくわれてきた。
たしかに、それほどのことがあるかと問われれば、そんなものはない。焼き芋が食べたいなら24時間営業のスーパーとか、コンビニに行けば代わりは見つかるだろう。しかし、ユカリは決して空腹の為に部屋を飛び出したのではなかった。
「イシヤキイモの声ってさ、ほとんど妖怪的だよね」と昼休みの教室でミィは言った。
「妖怪? 人でしょ」
「おそらくあるいは」
「どこかに疑わしいポイント、ある?」
ユカリは購買で買った焼きそばパンの包みを開けながら尋ねた。
「サンタクロースよりはリアルだろうけど、枯れ尾花ほどリアルでもない」
「ミィはいつもそう。遠回しなんだよ」
「詩的と言ってほしいなあ」
「自分で言う?」
とはいえユカリにしても、友人のそう言うところが嫌いではなかった。自分と同じ歳の女の子で、同じものの話をしていても、ミィのスケールに当てはめると、途端に物事は魔法にかかる。
詩的、とユカリは思う。評したこともあるかもしれない。ただ、そうミィに伝えたことはなかった。
ミィ自身が自分のスケールを詩的と評するとき、そこには必ず自嘲的な響きが伴う。決してそんなことはないんだけど、という丸括弧の注がユカリには見える。それはきっと、ミィの繊細な部分の表れでもあるのだ。ついやってしまう癖とか、使ってしまうフレーズについて、距離を置こうとする心の表れ。
であれば、ユカリはそれを尊重しないわけにはいかなかった。ミィの流儀に則ること。
「わたしはね、ユカ」とミィは語りかける。秘密を打ち明けるような小さな声。「あの焼き芋を歌う車を見たことがないんだ。ユカはどう?」
「わたしもない」
「しかし声は聞こえてた」
「何で過去形?」
「最近はとんと聞かないからだよ。ユカは?」
「そういえばわたしも聞かないけど……」
「わたしが”妖怪的”と言うのはね、あれが小さい子どもにしか見えない類のものじゃないかと思うからさ」
「妖精とかみたいに?」
「あるいは。ある種の感受性を失った人間には感知できないようなもの、という意味ではそうだね」
ユカリがミィの言っていることを飲み込むまで、焼きそばパン三口分くらいを要した。ユカリがミィに借りて、読み通したと嘘をついて返却した本の中身が思い出される。
「サンタの話をしよう」ミィは言う。「サンタクロースが父親になるとき、1つの夢が失われるんだ。夢というか、ものの見方かな。サンタクロースがパパとして理解されるとき、煙突から忍び混むファンタジーは効力を失う。そして魔法が解けてしまったら、もう2度と元には戻れない。それを人は分別という」
そう、それこそがユカリの思い出していた文章だ。
「よくわからないけど」とユカリは正直に言う。「ミィはイシヤキイモの声もそんな感じのものだって言いたいわけ? どっかの段階でわたし達が忘れちゃった、ファンタジーなものってこと?」
「絶滅危惧種のね」とミィは補足する。「あるいはすでに絶滅しちゃってるかもしれないけれど」
「最近聞かないしね」
「それもそうだし」とミィ。「焼き芋を宣伝しながら移動するなら多分車だろう、って考えちゃう時点でだいぶ分別ついちゃってるのさ。そういう仕事もあるだろう、とね」
そう語るミィの目には寂しげな色が射す。
「だから、見つからない方が良いのかもしれない、聞こえなくて良いのかもしれないとも思う。何で焼き芋を売ってるのか、どんなお芋なのか、そもそも実在するのか……そんな夢物語は夢物語として、ミステリーとして残しておきたいんだ」
ユカリがまたイシヤキイモの声を聞きたくなったのは、そんな友人の言葉からだった。
冷たい夜に飛び出したのは、イシヤキイモの正体を突き止めたかったからだ。空腹のせいじゃない。それが本当に実在すると証明できれば、1つ大きな一歩が踏み出せる。それはサンタクロースを捕まえるようなものだった。ファンタジーをファンタジーのまま捕まえること。それができれば、自分もミィに、彼女の言葉が素敵だと言うことが出来そうな、そんな気がしたからだった。