Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

【途中稿】ききかんりーっ!した

ブラウザで当記事を書き、休憩がてらアプリで確認、再度ブラウザで書き終え更新。その後、アプリで「下書きを保存」したのでデータが消えた。強制的に途中稿になった。


まちカドまぞくを見た。面白いのでみんな見てほしい。女の子同士の友情はやっぱり素晴らしいし、シャミ子が素直でかわいいよ。

Amazon.co.jp: まちカドまぞくを観る | Prime Video

Amazon.co.jp: まちカドまぞく 2丁目を観る | Prime Video

周辺情報

一期(無印)は2019年、二期(2丁目)は2022年。これファンは当時三年間も待ったの?

原作は「まんがタイムきららキャラット」(芳文社)。同じ雑誌発で他に見たのは、ひだまりスケッチけいおん!キルミーベイベー、NEW GAME!、おちこぼれフルーツタルトとのこと(結構見てるな)。そうかこの路線か。いやどの路線だ? ちなみに、今現在毎週楽しみにしているぼっち・ざ・ろっく!は「まんがタイムきららMAX」。こちらには、きんいろモザイクご注文はうさぎですか?がある。さらにちなむと、「まんがタイムきららフォワード」の方では、ゆるきゃん△、球詠、スローループを見ている。自分の中で分類ができていなかったので列挙してみたが、結構見ていることが分かった。ちょっと怖くなった。……あれ? ゆゆ式は? こちらは「まんがタイムきらら」。混乱する。

雑感

久しぶりにファンタジーっぽいものを見た。ファンタジー要素のある日常もの。全体的なテイストは爽やかで、彼女らはまぞく、魔法少女という属性を持ちながら日常を過ごしていく。

この「日常を過ごしていく」ってのが重要で、新鮮に感じた。主人公のシャドウミストレス優子(シャミ子)は、ある朝まぞくとして覚醒し、角や尻尾が生えて一族の封印を解くという使命を授かる。これだけするとドロドロとした話がはじまってもよさそうものだが、シャミ子に悪いことはできない。まずそんなに悪事が思いつくタイプじゃないし、仮に思いついても実行するタイプじゃない。実に真っ直ぐに育っている。対する魔法少女こと千代田桃の方がよっぽど悪いことを思いつく。現に、序盤だとまぞくであるシャミ子が言いくるめられるシーンのが印象的だった。

面白いのは、こういう言いくるめられてしまう、悪いことを思いつけるって部分が、単なるその場しのぎの設定じゃないってところだ。そういう風に育ってきた理由みたいなものが察せられる要素は随所にある。たしかに育て方がよかったのかもしれないが、体が弱かったのが改善した、魔法少女として街を救うレベルの争いにいたって背景を知ると重厚感が出てくる。

全体的なほのぼのさに比して無駄がない。これは登場人物の心理についてもそうだし、物語の作り方についてもそうだ。初見だとなんとなく配置されているように思える要素が、思わぬ形で再登場し、必然性を持つものとして再評価される。こういう経験が積み重なっていくので、全然気が抜けないということになってくる。意味が分かると怖い話、とか、ミステリ的な手法だと思う。ちょっと違うけど、チェーホフの銃でもいい。まるっきり油断しながら見ていたので、その分驚く展開が多かった。あれ、日常ものってこんなに緻密な作り方するんだっけ、と思ってしまったくらいだ(そもそも「日常もの」とはぼくが勝手に思っていたことなので、まずこの認識からして甘かった)。

ファンタジーの度合い

ファンタジーの度合いというか、ファンタジー要素の取り扱い方という点についていえば、最近見ていたものとは対照的だった。ここで対照物として置くのは、最近見た〈物語〉シリーズ青春ブタ野郎シリーズである。

〈物語〉シリーズの怪異や青春ブタ野郎シリーズの思春期症候群は、キャラクターの人格を戯画化したり、今現在抱えている問題を象徴するものとして現れる。これらの解消を契機として(あるいはその手続きの中で)、読者は今回の対象(クライアント)についての理解を深めていく。これらふたつの作品に共通するのは、問題の現象は今この時点では彼ら彼女らの外にあるが、根本的な部分は彼ら彼女らの内側に根ざしているという点だ。世界の側に属しているように見えて、それは自分自身の影である。確かにいろんな形で妨げにはなっているが、誰かが解消できるものではない。その影の形が怖いのならば、日に対して立つ角度を変えなければならない。そして、その主語は自分であるというわけだ。

ものの見方を変えること、そのために必要な儀式を行うこと。たとえば、横恋慕と知りつつもそれに悩むのであれば、実際に告白して敗れるというのはひとつの選択肢だ。付け加えておくと、上の二つの作品の優れているところのひとつには、それでも人間関係は続いていくということを描いているところにある。かつて問題を抱えていて、その時はそれと訣別したかもしれないけれど、忘れることはできない。脳の機能としても、心情としても――だからといって、「今となっては大事な思い出」と割り切れるばかりでもない、という人間くささが魅力である。

かなり脱線したが、怪異や思春期症候群という現象はファンタジーだと思う、ということが言いたいのだった。フィクションというよりもファンタジーじゃないかと思っている。そのファンタジー性を検証していくというのが基本的な方向性としてあるのではないか。作品世界を成立させるためのテーマ級の構造について、「これはなんぞや」「何が起こっているのか」を検証していく手続きがあり、それが哲学に共通するようで好ましい。世界についての問いと言い換えてもいい。事実、登場人物は、怪異や思春期症候群と名づけられた自分の世界の限界に直面している。

結局、あたりまえの毎日が過ごせるか

さて、まちカドまぞくである。

まぞくや魔法少女は、メタに見れば、ファンタジーである。でも彼女らにとっては自分自身のことで、かといって解決が急務の問題として目の前に現れてはこない。統一されていて、満たされている。自分は自分なんだよな。彼女たちは、今の自分をまるごと未来に持っていく。

まぞくvs魔法少女、光の者vs闇の者という構図はあるが、彼女らがお互いをどう考えるか、どのように接していくかは別問題だ。いやまあ、シャミ子は桃を宿敵認定して、いつか倒すとは言うんだけど。でもそれって致命的な問題には発展しないんだよな。まずその戦いがテーマでは(おそらく)ないわけだし、彼女らにも対比構造を問題化する動機がない。対比と対立は違うし、光と闇がいつも必ず争わなければならないかっていうとそんなわけもない。

この中立を保つバランス感覚、久しく忘れていた気がする。

ぼけーっと暮らしているぼくの日常の中にも、こういう感じで実は重要なものがあるんじゃないだろうか。いつもは馴染みの風景として見過ごしているが、後々伏線として再評価されたりするような……などと考えるのは、夢があって楽しい。