Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

ガチで記憶がない

こんなことを公開するのもどうかと思うが、いろんなことがあった。詳細は省く。今回は、自分のキャパシティを超えてしてしまったこと、それから酒と薬に逃げたこと、その影響について記す。自分の頭に整理をつけるためと、反省の気持ちを込めて書く。

※ 下に書かれているものは友人への感謝を除いてフィクションが混じっている。友人には悪いことは言われていないし、当然傷つけられてもいない。彼らについては、すべて真摯に受け取るようにしている。

僕という人間について

前提として、まず僕という人間について概説しておこうと思う。

僕の毎日において、何より助けとなってくれているのが、友人の存在だ。 リアルで出会い、依然として付き合いのある友人数名。インターネットで出会って、依然として付き合いのある友人。 彼らがなぜ、こんな人間を見捨てないのか不思議だが、この幸運には甘えることにしている。

僕は他者について「燦然と輝く価値がなくても、存在していて良い」と思っているが、この信念を自分に適用することが難しい。「役に立て、さもなければ価値はない」という声にずっと怯えている。

リアルで発生する、現実的なイベント事について過敏で、無駄に深く考える癖がある。些細な出来事の人生におけるポジションを診断し、自分の魂の在り方まで糾弾する。主なテーマは、経済事情と自尊心、凝り固まった”自分の正義”とやらだ。フランクな意味合いでは、過去のトラウマみたいなものによって、ほとんど常に攻撃されている。

酒と煙草が欠かせない。前者は現実がチクチクと痛むからで、後者は過去のトラウマ(吸わなければ休憩が得られなかった環境)の再演だ。 現実が豊かであったり、守ったりするもの、見届けたいものがあれば、これらは辞めることができると思っている。事実、好意を持っていた女の子と会うときは、ぼくは煙草を吸わなかった。彼女に嫌なにおいが着くのが嫌だったからだ。ビールを除けば、酒も煙草も嫌いである。

この人生がぼくひとりだけのものではなくて、幾ばくかでも誰かとの共有資産であったり、使命で忙しければ、物質なんかに依存はしない。健康のことは考えていない。最近、もしやという危機があったが、なんでもなかった。いつか癌になったとしても、ぼくはこれらの嫌いな物質を辞めないだろう。成し遂げたいことや終わらせたいことはあるが、現実的にかなり難しいからだ。

自分のキャパシティを超えたこと

2023年02月15日に、ちょっとした出来事があった。例のごとく、被害妄想的な感受性が災いした。1日は耐えたのだが、翌日16日に爆発してしまった。そのせいで、関係者各位に迷惑をかけたと思っている。申し訳ないが、どの口で謝罪すればいいのか分からない。友情を感じているからと言って、今回のはやりすぎだ。

根本的な部分には、経済的事情がある。それと対人関係。相手の立場的にそう言わざるを得ないのは想像できるが、けれども慣れない言い回しに傷ついた。好きでこういう状況になっているわけではないし、こんな状況に陥りたくもなかった。

これも細かいところまでは語らないが、「望まぬ苦境に陥った者の心情」というものには、ある程度の普遍性があるだろう。具体的な内容や表れ方は異なるだろうが、「望まず苦境に陥る」こと自体は誰にでも起こりうる。

さらに、苦しんでいる当人には、対処の方法が分からないことまである。すると、事態はより混迷を極めることになる。

個人に比べれば、組織の――役所や医療機関――には、かなりの経験値があるかもしれない。しかしそれは、専門的な理解と専門的な対処であって、主観的な体験とか混乱とは相性が悪い。

彼らは、苦しんでいるひとの存在は知っているし、苦しみの多彩さについても知っている。その増減もちゃんと数えているだろうし、それをもとに彼らなりの対応を変えてもいる。制度もそうだし、処方もそうだ。しかし、それは全体としての話であり、個々人の感じ方については、どちらかといえば無頓着だと思う。

主観、心、大事にしている物事――そういったものについては、無関心なのだ。 好意的に捉えるなら、彼らには余裕がないのかもしれない。専門的な援助を必要としている人間は、おそらくたくさんいる。とにかく忙しいのだ。自分の専門性を突き詰める必要があるし、業務上のルールもある。個人より、もっと多くの人々を助けなければならない。

頭では理解できている――彼ら専門家には、僕の精神的な”面倒くささ”に付き合う時間も権能はない。

これだけであれば、よかった。 問題は、彼ら専門家は必要以上に踏み込んでくるという点だ。僕が専門性を尊重して、こちらが聞かないことにしていることまで語りはじめる。彼らの想定している人間の枠に僕を押し込めようとしてくる。これは随分小さな型で、心や四肢は、はみ出てしまう。はみ出た部分はどうなるか。切り捨てられ、投棄されるのだ。曰く、「その部分は人間に必要ありませんからね」。

全身の毛という毛を剃られ、労働力としか見られない。労働ができなければ、軍靴で殴られる。個性が神話とされている、そういう状況にぼくはいる。

酒と薬に逃げたこと

薬といっても、ちゃんとした病院で診断を受けて、薬局で処方されたものだ。ていうか、それ以外の入手経路なんて、ドラッグストアとかコンビニしか知らない。水や白湯で飲めと書かれているやつ。具体的には睡眠剤と安定剤、その他。医師の相談なく急激に減らすと明確に体調が悪くなることもあるが、逆に多く飲めばその分効果が強くなるものでもないもの。

相談の上でゆっくり量を減らしていく必要のあるものに関しては、意思の力で辞めることもできる。もちろん、ひとによる。それが正しい薬ならば、辞めない方がいい。どうしても辞めたいならば、ちゃんとその旨を伝えて相談するべきだ。これは、医学とか薬学といった科学的知見を信じるぼくとしても疑いのない部分だ。飲まないことで、心理的な支えを失うというのも大きい。薬でどうにか保っている波が、暴れ狂うのは自他共に困る。

人が変わったように、落ち着いて、前向きになれるならよかった。けれども、そうはならなかった。ぼくの周りの現実的な環境がそれを許さなかったのだ。頭を占めていたのは、引き続き経済事情と自尊心、凝り固まった””正義”とやらだったからだ。気圧や天候もある。急激な気圧の低下、急上昇、低気温、部屋を揺るがす強風――特に最後のやつは、とても怖い。

しかし、ぼくはこれを辞めた。 とても辛かった。あの1・2週間、何度薬を再開しようかと思ったか分からない。

怪我の巧妙というか、それでも分かったことがある。飲み始める前と、辞めたあとで波の振幅が変わらない。「じゃあここ数年の多種多様なアイツらは無駄だったんじゃないか?」と結論づけた。この断薬期間で、色々認知的な発明をすることができたし、それまで学んできたことが腑に落ちた部分もあった。それらが功を奏したのか、今の方が自由な感じがある。

そのはずなのに、だ。 やっぱり納得のいかないこと、ぼくの心に許可なく土足で踏み込んでくるような相手と会ったり、自分の生き方を全否定するようなことを言われたりすると、やはり暴れてしまう。

具体的には、ストロング缶を1ℓ以上開けて、各種薬剤を粉々にして飲んだりする。

その影響 : 部屋の乱れ、覚えのないチャット履歴

状況証拠からすると、プラスチック系のゴミ袋をぶちまけたらしい。ひっくり返したのではなくて、口の開いていた袋にぶつかったのだと思う。ほとんど全部が床に散らばっていた。冷蔵庫にも衝突したらしく、その上に載せていた小さな鏡が粉々に割れていた。落ちていたのは鏡の部分だけで、掃除した後もフレームが見当たらない。おまけにコンセントの分配器も根本から砕けていた。冷蔵庫のコンセントは片方だけはまっていたので、誰かが差したんだと思う。

Discordに覚えのないチャットがある。確認すると誤字が多すぎる。最初の一言だけは確かに打った覚えがあるのだが、あとは記憶にない。しかも送信する途中で閉じた形跡がある。

日々のやるべきリストに変な文字列が打ち込まれている。誰がいつの間に打ち込んだっていうんだ。

ここまで記憶を失ったのは生まれて初めてだ。