Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

日常にオカルトをどこまで持ち込むか

というようなことを考えている。一応、科学者を目指していた人間ではあるので、オカルト一般には懐疑的だった。一方で、じゃあ「科学的」とされるものはどこまで真実なんだ? と自問してみると、「まず"真実"とやらの定義を決めなきゃですね」となる。自分はこの"真実"とやらをどういう性質のものだと捉え、どう向き合ってきたのだろう。「科学者を目指していた」とぼんやりした表現になっている時点で、結論が見えている気がする。科学とオカルト双方について、ぼくは態度を定めてこなかった。『とある魔術の禁書目録』を読んだのにな。

今パッと、しかしてフラットに定義してみると、「科学とは、(現代)(日本)で不特定多数に信じられているだろう(と期待したい)手続きによって採用された経験の集積」って感じになると思う。これは科学哲学の領分じゃないか? 要点は、時と場所が変われば、採用手続き自体が違うものになる可能性はあり、そもそも「どの経験を集積して、価値の重みづけをしていくか」って価値観も変わるってところにある。具体例としては、我々は〈このすば〉内の街、アルカンレティアの価値観に忌避感を覚えることができる。

完全無欠に科学的であることが、必ずしも良いとは限らない。感情は化学によって説明できるが、心理学でも説明できる。心理学――というか、確か1950年代頃からスタートした実験心理学なんかの素晴らしいところは、これを科学として検証可能な仕組みを次々生み出していったところだ。

だが、我々はふだん、心というものを科学的に生み出しはしないし、それらを測ったりはしない。主観を現象学的に捉えると、ここら辺が問題になってくる。スマートウォッチとかで「血圧上がってますね」と言われでもすれば、「ということは、私はこういう状況にあるわけだな」と科学的な回路を回すことはできるかもしれない。ここで、スマートウォッチを持っておらず、血圧の上昇=怒り?という発想もなく、そもそも怒りという言葉を持っていなかった場合はどうなるか。さらに衝動的な殺人を追加してみよう。彼は言う――「突き飛ばされたように刺した」。あるいは、神や悪魔って言葉だけを知っていれば、「悪魔が代わりにやった」とか言うかもしれない。

科学を信じるというのは、ぼくにとってはひとつの好みのようなものである。趣向、性癖。で、これは幸いなことに関係者に支持されているので、あまり日常で衝突は起こらない。けれども、問題は、今この瞬間って極限をとったときに、そこに科学もオカルトもないという点にある。目の前にはキーボードがあるが、この現実は科学的か、オカルト的か。このキーボードを選んだ理由を説明するとき、ぼくはおそらく科学的な言葉を用いる。より具体的には、経済的な理由を述べる。「必要最低限な機能があって、可能なかぎり安価なものを選んだ」。けれども、これを「霊感に撃たれた」と置換したところで、誰の批難も受けない。

というようなことを、さまざまな事柄に適応するとき、完全無欠に科学的であることを追求しなくてもよく、仮にそれを望んだからといって、オカルトを全廃しなけりゃならないってことにもならないのでは、となった。精密な魔女裁判を全ての瞬間に実施しようとしなくてもよい。たとえば、いつかやろうと思っていた玄関の掃除を、「玄関が汚いと福の神が来ないから」って理由で実施して、結果福の神が来たか来るかは知らないが、気持ちがすっきりしたと感じるなら、やればいい。オカルト全廃とは、こういう思考回路を否定することになる。まあそれでも危急の問題にはならないが、とはいえ多少窮屈になるのではないか。

こういう小さなオカルトについては、思考過程を省略できるって機能もある。ぼくは差し迫って神を信じないし、むしろライプニッツ的価値観には嫌悪感を覚えるまであるのだが、便宜的に神とやらを配置することで、延期に延期を重ねていた課題が片付くんであれば、利用して損はなかろう。試しに、ある方角に吉とされるカラーを配色することで――必然的に、部屋の清掃と模様替えが伴う――気分転換になって、多少でもやる気が出るんであれば、悪いことは起こらない。その配色が気に入らなくなれば、否定すればよい。

出ないんだけどさ、やる気。
出なくて焦って、おまけに落ち込み出してるんだけどさ。
だからこんな、全然整理されていない文章なんか書いてンだけどさ。

ちなみに、今日思いついたオカルトはこれです――「壊れた家電に頭を向けて寝ると、夢が壊れ、脳が破壊される」

エリアーデとか読んでみようかなあ。