Les miZenables

ブログをメモ帳と勘違いしている

またひとつ歳をとった。

今日は誕生日だった。

特別な事を一切しなかったのは初なんじゃないだろうか。

毎年この日は「『産んでくれてありがとう』と母に感謝せよ」と言われて育ってきたが、それもサボってしまった。電話は明日にする。
あまり深くは分け入らないが、この辺りについては幼少期からいろいろと思っていた。今は絶望こそしてないが、かといって、口先だけでも気の利いたことを言えるほど元気ってわけでもない。中途半端な状況にいる。

またひとつ荒波を超えた。その惨憺たる日々というのが、先々週の話だ。先週はその反動でほとんど寝込んでいた。頭の方は比較的落ち着いていたが、その分溜め込んでいたものが体調に出てしまった。象徴的なことを言うと、消化しなきゃならない事柄が多すぎて胃もたれを起こしていた。今までの人生傾向とか、自分の中の矛盾とか、それらを他者の力を借りることで客観的に認識し、自分もそのことを納得できたので、悪いオチではない。とはいえ、キツいものはキツい。

ここ二週間くらいは、いかなる創作活動もムリだし、なんならSNSもムリ気味だった。何にもしたくないし、考えたくないし、誰とも話したくない。映画、アニメ、音楽、どれもムリだ。自分のことを疎かにする傾向は今までもあったが、過去最悪の状態だった。他者の関心を惹きたくてというよりも、そうして自身へのケアを完全に放棄することで、今まで自分に向けられてきた(と感じている)視線や言葉を受け入れようとしていたんじゃないかとも思う。かなり危険な状態だったんじゃないか。

叩き台として、徒らに想像力を働かせてみる。先々週のぼくは、もしかすると死人になりたかったのかもしれない(これは希死念慮とはたぶん違うだろう、新しい意味を企図して使っている)。昔のRPGとかで見た覚えがある、白骨がオブジェクトとして置かれているシーン。もはや社会との連続性は絶たれ、彼自身も自分に望むこともなく、責任感もなく、そこに横たわっているという状態。もちろんそれ以上疲れることもないから、その点では気楽という状況だ。

このようにして、見当違いであっても、想像力を働かせることができるのは、友人や支援者のサポートによる。気まぐれに差し入れを持ってきてくれたり、予定通りに話してくれたりした。悲壮感は常に付き纏っていたし、彼らの言った内容が全然分からず、数日は思い出せない状態ではあったが、温かい飲み物がジワジワと体を温めるように効いてきた感覚はあった。その成果として、先日は友人を呼び出し、酒を浴びるように飲んだりした。少なくとも、精神面でこれができるのとできないのではだいぶ違う。

完全復調とは全然言えない。いわんや、創作なんてムリだ。書きたいことなんてない――とは、自分に対して責任を取りたくないし、事実取れない状況にあるからだ。この状態自体は以前から度々起こってきたが、根本的にはトラウマティックなことと関わっているので、今回は省略する。「自分に対して」と書いたが、「自分の感性に対して」の方が近いかもしれない。「自分は何が好きで、どういうのを書きたかったのか」とか「これいいじゃん、やっぱ最高だよな」という判断すらもできないか、したくない状態にある。これでは文章なんて書けない。

では代わりに何をやっているのかと言うと、あるゲームをプレイするか、頭の中で曲を作ったりしている(PVも同時に思いつくが、装置を作るのが大変で難儀している)。弱った判断基準でも明確に褒められていると分かることか、そもそも「何が好きなんだっけ、を探す」というものだ。こういうことならできることになった。スタート地点がみんなに比べてだいぶ後方な気もするが、まあここがおれの定位置だ。比べても仕方ない、とは言えるようになっている。幸先は最悪ではなくなった。

生きていることに感謝はしない。生まれてきたことについても難しい。そういうことは、もっと明らかにハレの日にしたいと思う。そう感じたことが今まで一度でもあったなら、この先もきっと一度くらいはチャンスがあるだろう。

消化にはもう少し時間がかかりそうだ。ひょっとするとまた長引くかもしれない。早く治って小説書けるようにならないかなあ、なりてぇなあ。