Les miZenables

フランス語、ドイツ語、映画や本についてなど。いろんなことを横断的にやっていこうと思っています。

『宇宙戦争』(1953年)

 前回紹介した『宇宙戦争』は2005年のバージョンで、スティーブン・スピルバーグによるリメイクとのこと。元を見たことになる。Wikipediaによると、『インデペンデンス・デイ』にも似たシーンがあるとのこと。なるほど確かに、と思う部分もあったはずだが、あれを『宇宙戦争』シリーズと見て良いものかはまだ判断しかねる。『インデペンデンス・デイ』の方は続編も出ていたはずなので、近いうちに観よう。

 1953年の映画。調べてみると、すごいなこの1950年代という時代。『ローマの休日』『雨に唄えば』『生きる』『ゴジラ』『エデンの東』などなど。錚々たる顔ぶれじゃないか。 こうやって少しずつ時間の中の地理感覚を磨いていきたいものですね。
.    この映画を見る前に、原作『宇宙戦争』(創元SF)を読み終え、昨日見た『宇宙戦争』の内容もこなれてきたところだったので、それぞれの良さが大体まとまってきた。
   突如火星から飛来した未確認物体によって、人類が滅亡の危機にさらされるという作品。ファーストコンタクト物だが、特徴としては、人類には基本的になすすべはなく、敗戦一方というところだ。とことん方法がない。
 原作小説の方は、潜伏と逃避行という限界状況の中で、どうにか生き延びようとしながら、割と近いところで火星人の習性を観察する(というか目を背けて逃げ切れる相手ではない)。全てが終わった後の報告らしいということが、読み進めていくうちにわかっていくが、火星人たちがどうなるのかは最後まで読まないとわからない。
.  結論は原作小説と二つの映画版で変わらないんだけど、どこに焦点を当てるかという部分がやはり異なってくる。

1953年版のあらすじと魅力

 1953年版の『宇宙戦争』は、第二次大戦後のアメリカが主な舞台となる。カルフォニアに落下した最初のポッドを口火を切る形で、次から次へと飛来する火星人のマシーン。協力な磁場フィールドを形成しているので、通常攻撃が通らない。陸上戦力と航空戦力が冒頭から集結するあたりは、時代の力を感じる。
 科学的考証もあり、火星人の探査機の部品から、彼らがどのように物を見ているかの分析がはじまり、血液サンプルも採取することができるので、それを元に人類にも反撃の希望があるのでは、という風に話は進んでいく。こうしたちょっとした科学的な議論でもあると、ぼくは満足します。
 原作小説の方では、主人公の視野が主にイギリスに集中しているということもあって、他の国の様子がよくわからない。しかし、1953年のバージョンでは、火星からの侵略がすでに世界各国で行われていることがわかる。火星人はEMPみたいなことをやるので、通信手段がほとんどない。そんな中で、世界が団結していき、火星人に対して協同で対処しようという向きが生まれてくる。統合政府じゃん、未来に期待だな、とワクワクしたポイントだ。
 とはいえ、舞台はアメリカ。とにかくロスがやばい。しかしこれといって直截的な対処方法が見つからないので、核を使うことになる。やはり核なんですね。それまでの10倍の威力を持つ核を打ち込むシーンで、「人類は勝利を収めることができるのでしょうか」などとリポーターが言う。フラグじゃん。実際、核にはビクともしない火星人のマシーン。

 人類は敗走を余儀なくされる。避難指示の中、研究所に戻る主人公、フォスター博士。彼らに残された希望は、火星人の貴重な血液サンプルだ。知能は人類よりも高いらしいが、血液はとても原始的とのこと。そこに勝機がある。
 スクールバスで移動するフォスター博士。すでに都市は避難が済んでいるようで、もぬけの殻だ。あれだけ高い建物が立ち並んでいて、そこに人々も住んでいたのだろうに、もう誰もいない。阿鼻叫喚の中に世界は滅ぶのではなく、恐ろしいほどの静寂がある。このシーンは『バニラ・スカイ』を思い出しますね。まるで現実味のない(あるいはそうと信じたくないほどの)沈黙。
   そしてこれは2005年版の『宇宙戦争』にもあり、原作小説にもあったシーンなんだけど、主人公は暴徒化した市民に見つかる。彼らとて、できるだけ早く火星人たちから距離を取りたいのだ。だから車に襲いかかり、主人公は車から引きずり下ろされる。人混みが去り、傷だらけで立ち上がれば、スクールバスはどこにもない。血液サンプルもだ――あれは人類を救うための希望になるかもしれないのに。

ひとりの人間としてできること

 1953年版の面白いところはここだ。フォスター博士は、それまで科学者として火星人に向き合ってきた。前線で侵略者を観察し、一晩だけの避難所に運悪く火星人のポッドが落下してきたり、そこからヒロインを守るために火星人のマシーンを破壊することに成功したが、そこで得たものを研究所に持ち帰り、仲間と共に敵を調べようという科学的精神の持ち主だ。しかし、頼みの綱の血液サンプルが失われ、人の消えた都市に火星人の殺人マシーンが侵入してくることで、そういった科学者としての使命感は意味をなくしてしまう。

 ただの人間としてほとんど無人の街に放り出されたフォスター博士はどうするか。そこで思い出されるのは、火星人の怪光線によって叔父を殺されたひとりの女性の言葉だ。「あの時と同じ感じかしら、迷子になった時と」。火星人はどんどん攻めてくる。それどころか、都市をどんどん破壊していく。「あの子は今も迷子なんだ」と彼は言う。最後の見回りをしていたのだろう、軍人か警官か、「それは君もだろう。いいから早く車に乗りたまえ」と言われるが、彼はそれを振り払う。彼はその女性を探しにいく。
 それは理性的な判断ではなかったのかもしれない。この圧倒的な破壊の前では、正気を保つことなど難しかろう。ひょっとすると、彼は狂気に落ちていたのかもしれない。孤立無援、火星人の怪光線や崩落する建築物の中、彼は教会から教会へと駆け回る。ただ「迷子」の女性を探すために。彼自身もまた「迷子」だった。いや、だからこそ、なのかもしれない。彼を動かしていたものは一体なんだったのだろう。愛か? おそらく違う。

 突如として火星人の攻撃は止む。「創造主の英知によって地球は守られたのだ」。
 これもまた面白いセンテンスだ。
 この文脈から、超越的なものを取り除くこともまた可能な作りになっている(信仰の力を称揚するのであれば、御姿の映ったステンドグラスを爆破しないだろう)。人は祈りによって、自分たちの対処できない問題を一旦超越的な存在に託し、そうすることで、問題を受け容れることができるようになるのだ。
 これはちょっとした発見だった。ひとは最後には祈るしかないのかもしれない(最後まで遠くまで逃げていたひとも勿論いる)。それで、実際の問題が解決できるわけでは、おそらくない。ここにあったのはリアリズムであり、それを脚色することで得られる信仰の形だった、とも見える。

おわりに

 この作品は1953年の作品だ。だから特殊効果にも古臭さを感じるかもしれないし、現代的なあるいは更に未来の軍事力を見慣れた目にとっては、陳腐に見える箇所もあるかもしれない。しかし、そこで描かれている人間のリアルさは、今もなおやはり色褪せないと思う。
 それは原作小説もそうで、あれなどは19世紀末の話だから、移動手段が馬車だったりする(列車もあるにはある)。しかし、共通して言えることは、火星人の襲来と人類の大敗北という壊滅的な状況で、一人一人の人間がどのように感じ、どのように対処していくか、というものを描いている点で、普遍性がある。そこには、観ているもの、読んでいるものが、同様のシチュエーションに置かれたら……という想像力をかきたてるものがある。
 時を超えて、こちらの想像力をテストしにかかってくる。備えはあるか、備えるとしも、何に、どのように? 疑問は止まない。ここに思考がはじまり、好奇心がアイドリングをはじめる。SFは最高ですね。